※本ページには広告が含まれます
本記事の筆者 牡丹です。
幼少期~小6の卒業式の日まで場面緘黙症でした。
筆者が場面緘黙症だった当時、自分が場面緘黙症であることも知りませんでした。
そのため、「私は学校で話せない変人」だと思い、自分を責めながら過ごしていました。
本記事では、今も鮮明に覚えている場面緘黙症の苦しかったエピソードを、11個紹介します。
場面緘黙症のお子さんを持つ保護者や関係者の方に、少し参考になれば幸いです。
聴覚異常や知的障害と勘違いされた
場面緘黙症の人は、学校に行くと話ができないので、周りから話しかけてもらっても、応答ができません。
無反応です。
その結果、筆者は『耳が聴こえてない子』と勘違いされることも、よくありました。
もしくは、『音は聴こえてるけど、言葉の意味の理解ができない知的に障害のある子』と勘違いされることも、しばしばでした。
「なぜ、筆者のような子が普通の小学校に通ってるのか」と、疑問を持っているクラスメイトも、たくさん居ました。
「ガイジ」と言われて、からかわれることが、とてもつらかったです。
酷い言葉を投げつけられるたびに、『本当は、ちゃんと聴こえてるよ。言葉の意味もわかってる。そんな言われたら、普通に傷ついてるんだよ。』
と内心、思ってました。
表情すら出せない
場面緘黙症は、特定場面で話せないのに加えて、表情も出すことができない人が多いようです。
筆者もそうでした。
表情だけでも出すことができたら…周りと少しでもコミュニケーションがとれたかもしれません。でも、学校に行くと『表情すら出してはいけない』というマジックに取りつかれるのです。
優しく声を掛けてもらったり、何かしてもらったとき、『ありがとう』と言えなくても、相手に対して微笑むことができたらどんなに良かったでしょう。
傷つくことを言われたとき、悲しさを顔に出すことができたら、少しは自分の気持ちを相手に伝えられたかもしれません。
例えば、クラスメイトが面白いことを言って、全員爆笑するようなとき。
当然、筆者も耳は聴こえているので「面白い」と思うのに、『学校では表情を出せない』という場面緘黙症ルールがあるから笑うのを我慢してました。
本当は笑いたいのに「我慢しなきゃ」となり、とてつもなく引きつった表情になるのです。
そのようなとき、「あ、今、牡丹が笑った」とクラスメイトに言われて注目されると消えてしまいたい気持ちになっていました。
「笑ってしまったところを見られた」というのは、場面緘黙症の筆者にとっては、あってはいけないことだったのです。この感覚は、場面緘黙症の経験者にはよくわかるかもしれません。
学校に居る間、無口無表情をずっとキープしないといけないので、本当に大変でした。
不名誉なプロフィールが付きまとう
クラス替えをしたときや、学年交流の時。
「この子は、家ではしゃべるらしいのに、学校に来るとしゃべらないんだよ。どうかしてるよね。」というような言い方で、いろんな人に紹介されていく日々でした。
学校内で、不名誉なプロフィールとともに自分のことが認知されていくことが、非常に恥ずかしかったです。
相談相手は皆無だった
場面緘黙症の筆者には、相談相手は皆無でした。
すべてを自分で抱え込む毎日でした。
学校では、時々「チャイルドライン」という子供の相談に乗る機関の案内が、配られていました。
「相談したいことがあれば、この電話番号にかけてください」と書いてあったのを見て、少し勇気づけられたのを覚えています。
「ここにだったら相談できるかも…」と思い、ある日、電話してみることを決意しました。
「本当に相手にしてくれるか…」そんなことを考えながらも勇気を出して電話をかけました。
「私、学校でおしゃべりができないんです。どうしたらしゃべれるんでしょうか?」
そう言おうと心に決め、家の自室でこっそりと電話を掛けました。
相談員「はい、もしもし」
牡丹「も…し…もし」
相談員「何か悩みがあれば聴きますよ~」
牡丹「………あ、ごめんなさい。やっぱりいいです」
ガチャ。
結局、何も相談できませんでした。実は、相談員さんが電話に出た途端、咄嗟にこのように考えてしまったのです。
『いま、こうやって電話で話せてるんだから、学校でも同じように話したらいいのでは?明日から勇気を出してみてごらん。それで大丈夫だよ。』
って言われるだけかもしれない…
この不安で頭がいっぱいになり、結局一言も相談できずに終わりました。
本当は誰か1人でもいいから自分の気持ちをわかってほしいのが本音でしたが、その後も、相談相手を見つけることはできないままでした。
もしあのとき、ちゃんと相談できてたら、チャイルドラインのスタッフさんと、どんな話をしてたんだろうと思います。
イベント=憂鬱
「授業参観」、「運動会」、「音楽祭」のような保護者にも集まってもらうイベントの日。
楽しみにしながら迎える子も居れば、緊張する子も居て、人それぞれでしょう。
場面緘黙症の筆者にとってイベント日は、特に憂うつに感じる日でした。
イベントの日は、自分の場面緘黙症の症状を保護者の方々にも晒すことになるからです。
・授業参観中に、一人だけ発言できていない姿 ・合唱祭のとき、ひな壇ステージの上で一人だけ歌えずに、ただ立っている姿 ・皆、同じ動きをするときに一人だけできない姿 ・演劇会の時、本来一人1セリフなのに、自分だけセリフを持っていない姿
このようなところを晒して、情けなさの極みでした。皆と同じことができないために、逆に目立ちます。
自分の親に対しても、家とは全く違う姿を見られることが、恥ずかしかったです。
筆者は実際に『不思議な子』『学校では何もできない甘えてる子』と、同級生の保護者からレッテルを貼られていました。
転校生を迎えるとき
「どんな子かな」と転校生がやってくることに周りが心を躍らせる一方、場面緘黙症の筆者は、失礼ながらも、転校生が来ることが憂鬱でした。
自分の『学校で話せない』醜態を晒す相手を、この世界にまた一人増やしてしまうという感覚でした。
転校生が、学校に徐々に慣れたあるとき、やはり筆者の「不思議」に気付く日はやってきます。
『あれ?なんかこの人の声、一回も聞いたことない気がする。全然しゃべらいよね?』となる展開でした。
不思議そうに『牡丹ちゃんって、なんで一言も話さないの?』『何かの障がい者なの?』などと周りに尋ねています。
そんなド直球の素朴な疑問に対して、周りは気まずそうな顔をします。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
転校生によって筆者への反応は様々でしたが、強い拒絶反応を示す子も居ました。
「学校で話さないとか気味悪すぎる」「この人と近くの席にだけはなりたくない」「見苦しいから、顔も見たくない」と言われたこともあります。
前の学校には居なかった「学校では話せない奇人」の存在を、到底受け入れられなかったのでしょう。
自分には達成できない目標
場面緘黙症を抱える筆者にとって、特につらいシチュエーションがありました。
登校後の朝、クラスのホームルームで、その日の目標が決まります。そのときに『授業中、一人一回は発言しよう』というような目標になったときは、消えたくなるような気持ちでした。
場面緘黙症の筆者は、絶対にその目標を達成できないからです。
先生やクラスメイトも「牡丹には絶対に無理な目標」ということは認識してくれてはいましたが、筆者自身が、その場にいることが苦しかったのです。
帰りのホームルームで、全員目標を達成したかどうかの確認のときも、気まずい気持ちで耐えるばかりでした。
逆に、『廊下を走らない』というような目標の日は、余裕で目標を達成できたのですが…。
長期休みと場面緘黙症
夏休みなどの長期休みのときは、緘黙から解放される貴重な時間でした。
「場面緘黙症」という、学校に行くからこそ発生する不安症。学校に行かない休み期間は「場面緘黙症」も休み期間です。
長期休み前の終業式は、一時的に開放的な気持ちだったことを覚えています。
毎日、話して動ける日々がやってくるからです。
特に夏休みは長いので、余計にです。ただし、夏休み中でも朝のラジオ体操などで、学校の友達と会うときは、場面緘黙症が必ず顔を出します。
長期休み後半になると、また「話せない、動けない日々」がやってくることを心の中で嘆いてました。
毎回毎回、「今度の始業式の日から、学校で話そう」と強く自分に言い聞かせました。
絶対にできないとわかってても、そう言い聞かせることで、なんとかバランスをとってたのを思い出します。
そして、始業式の日。やはり朝を迎えて学校に行っても話すことはできません。
そんな自分にがっかりするんです。「また、今回もダメだった」と。
そして、次の長期休みを首を長くして待つという繰り返しでした。
外泊を伴うイベント
高学年のときに林間学校がありました。
林間学校は、一週間、施設で同級生と寝食を共にしながら、自然学習をするイベントです。
筆者は、林間学校の前、不安が大きくなっていました。
「一週間も、全く話せない日が続くのか・・・大丈夫かな。何かあったらどうしたらいいのか」
普段だったら、放課後、家に帰ったら、発話もできて自由に動くこともできるのですが・・・・
朝から夜まで「話せない・動けない」私で、上手く一週間もやり切れるのか、懸念していました。
家でスーツケースに必要なものをパッキングしているときも、不安があふれてどうしようもできませんでした。
場面緘黙症の人は、人前で食事をすることにも過度の緊張を感じてしまうことがあるようです。
筆者もそうでした。
林間学校の食事のときも、みんなが居るところではなかなか食べられなかったので、タイミングを見て少し食べることくらいしかできませんでした。
夜は、ルームメイト全員で恋バナで盛り上がっていましたが、筆者はただそれを聞いていました。
話せない一週間でしたが、周りの配慮もあり、何とか無事に帰ることはできました。
帰宅したときは、やっと緘黙状態から解放されて一週間ぶりの発声となりました。
一週間もまったく話さないと、声の出し方すら忘れてしまう勢いでした。
また、やはり空腹が重なっていたのか帰宅後に勢いよく、ご飯にありつきました。
そのあと腹痛になり、親から「急にいっぱい食べたから、お腹が対応できてないのでは」と言われました。
「人前で食べられない」ことを親から咎められた気持ちになり、「そんなことない!」とムキになって言い返したのを覚えています。
やはり場面緘黙児にとって「一週間、学校に閉じ込められているような状態」は、精神的に参るものです。
学年を超えた交流イベント
筆者の学校では、毎春、歓迎遠足がありました。
新1年生を迎えた新学期、6年生が1年生と、「1対1」のペアを組み、歓迎遠足のときも一緒に行動するルールでした。
6年生になり、その日は訪れました。自分たちが『6年生』という先輩で、1年生をリードする側です。
筆者は、高学年になるにつれて、緘動症状は緩和されていきました。6年生のときは自分で一通り動けるまでになりましたが『緘黙』だけは相変わらず残ってました。
歓迎遠足の数日前に、大集会室に6年生と1年生が全体集合して、先生から、ペアの発表がありました。
周りの6年生は、『どんな子とペアになるなかな~』と目を輝かせていました。
そして、自分のペアの子が発表されると、可愛らしい1年生との会話に夢中になっていました。
優しいお兄さん、お姉さんそのものでした。一方、筆者は苦しい思いで胸が張り裂けそうでした。
『私のペアになった子は、とてもかわいそう…。そして、話せない私は、どう対応すれば良いのか』と考えていると、ついに、筆者のペアになる子が発表されました。
その子は、まず筆者に『名前なに?』と聞いてきました。当然、1年生の子は筆者が『話せない』人だとは知りません。
筆者は、咄嗟に口パクで名前を答えました。そんなときすらも声は出ません。
悔しくてたまりませんでした。口パクして声を伴わない6年生のお姉さんを、ペアの子は、びっくりしたような目で見つめてきました。もう一度、口パクしましたが、もちろん決して声にはなりません。顔から火が出る思いでした。
周りのペアが、仲良く話しているのを見ながら、ただただ時間が過ぎていくのを待つ静かな二人の空間となってしまいました。
遠足当日。
筆者は、話せないので、ペアの子と黙って歩くしかありませんでした。行きも帰りもです。
退屈な思いをさせ、不思議な先輩と思われてしまい、自分が、学校で話ができないことを心の底から苦しむ時間でした。
「ごめんね、話せないお姉さんで。」と心の中でいくら謝っても相手には届きません。
入学したばかりの1年生に対して、自分の名前も言えず会話を伴うお世話もできず、その場から消えたくなりました。
自分が「話せない」ことを、またひとつ惨めに感じたときでした。
卒業式での試練
どんなに話したくても学校では話せない毎日。
筆者は、常に苦しい学校生活を送っていました。
しかし、そんな筆者にさらなる試練が、小学5年生の終わりごろに舞い降りました。
「卒業式」は6年生が主役ですが、5年生も卒業式に参加して、6年生を見送るシステムでした。
そのため、5年生の終わり際になると、卒業式のリハーサルが始まりました。
初めての卒業式のリハーサルに参加したとき。卒業証書授与のやり方を見て、大ショックを受けました。
多くの学校で取り入れられてる方式だと思いますが、卒業証書授与のときのやり方は以下でした。
6年生は、一人ずつ名前を呼ばれたら返事をして、壇上に上がる⇒ 壇上の中央まで行って卒業証書を受け取る⇒ 壇上に設置されたスタンドマイクで、会場全体に向けて、一言コメントをしてから壇を降りる
「そ、つ、ぎょ、う、しきって…。こんなやり方なのか…。」
筆者は絶望しました。
「来年、自分たちの番がやってくる…みんなの前で、返事をして一言コメントもしないといけないのか。どうしたらいいんだろう。自分にはできない。でも自分だけできないなんて恥ずかしすぎる」
1年後の卒業式が、恐怖で仕方なく、失神しそうでした。
学校の全職員の方、保護者の方、5年生の後輩たち、自分の同級生、を前に…
自分だけ、返事もできず一言コメントもできない状態で、卒業証書だけ受け取る姿をリアルに想像しました。
「来年の自分の卒業式、出席したくない」
真っ先に思った本音は、これでした。だからといって、小学校生活のフィナーレの儀式…それから逃れることはできないとわかってました。
当時は、自分の悩みや気持ちを誰にも相談できなかったので、卒業式への絶望も誰にも相談できませんでした。
歴代の担任の先生や同級生は、筆者が「学校で話せない」ことを認識してくれてましたが、その他の方々からすれば、筆者の姿を不審に思うはずです。
本番のとき、誰かから「返事しろ!」「君、一言言うの忘れてるよ」と叫ばれたりする可能性もあるかな…
そんな不安が胸に刺さり、苦しくなっていきました。
学校で話せない辛さを抱え、いじめらながらも学校に通いつつ、日に日に近づく卒業式への恐怖に押し潰されてしました。
卒業式の時までに話せるようになれたら…と思っても、無理でした。
そして、一年なんて本当に早いもので、嫌でも自分たちが主役の「卒業式のリハーサルのシーズン」が来ました。
卒業証書授与のリハーサルでも、やはり筆者は声が出せず、返事と一言コメントはできずに証書だけ受け取りました。5年生との合同練習のときは、余計に屈辱でした。
卒業式当日。
本来は笑顔で迎えたかった卒業式。筆者は、歯をくいしばり、心で泣き、学校に向かいました。
当日は、圧倒されるほど、たくさんの方が観に来ていました。
卒業式は順調に進み、卒業証書授与の時間はすぐにやってきました。
同級生が、大きな声で返事をして、証書を受け取り、6年間の一番の思い出や将来の夢を語るなか。
筆者は、卒業証書のみを貰い、壇を降りました。
降りた瞬間も、とても悔しかったですし「なぜ返事もせず、スタンドマイクも素通り?」とたくさんの人に思われたでしょう。
でも、その場で、何か言われることはなかったので、それは救いでした。
当日は、卒業生の合唱の時間もありました。小学校最後の合唱です。
もちろん、筆者は歌えませんでした。
あのとき歌えなかった歌は、後になって一人で大きな声で歌いました。
卒業式自体は無事に終わり、一年にわたる卒業式へのプレッシャーから解放された日でした。
まとめ
本記事では、筆者の小学生時代の「場面緘黙」ならではのエピソードを紹介しました。
書いているときも、当時の状況がリアルに思い出され、特に自分の中でも記憶に残ったエピソードであることを実感します。
概して言えることは、当時、場面緘黙児が「普通学級」での教育を受けること自体に無理があったのでしょう。
当時は、「場面緘黙症」という病気の存在も、筆者がその「場面緘黙症」であることも誰も認知していませんでした。
筆者自身も自分が「場面緘黙症」であることを知らなかったので、苦しみながら学校に行く選択以外、とることができませんでした。
長期間にわたって、精神的なストレスを抱えたことは、後々にまで筆者の人生に大きな悪影響を及ぼしました。
これが、平成の場面緘黙症の実態でした。
500人に1人と言われる場面緘黙症。
令和の場面緘黙への対応は、もっと変わっていかなければなりません。
コメント